赤狩り2巻感想!「ローマの休日がいかにして制作されるようになったのか・・・!」

1巻冒頭で描かれていたのは『ローマの休日』の撮影風景です。

日本人も愛した、あのモノクロの映画がどんなふうに撮影されていたのか、ウィリアム・ワイラー監督とオードリー・ヘプバーン、そしてグレゴリー・ペックらの姿から始まり

しかし、不穏な匂いはどんどん濃くなっていき、当時のアメリカが、そしてソ連を始めとする国々が太平洋戦争後の危ういバランスの中でどうやって均衡を取っていったのか

 

そして自国の理念を守ろうとしていたのか、それぞれの立場が克明に表されて、正直、あの時代のアメリカのイメージが変わりました。

そして二巻のメインは、その『ローマの休日』を通してそんなアメリカに起きていたまるで魔女狩りのような言論統制、

ことに共産主義者への弾圧と、それを知恵と勇気を振り絞ることでかいくぐり、自分たちの思いを世界に届けようとしていた映画関係者の物語となっています。

 

驚いたのは背表紙にある似て非なる『ローマの休日』のイラストです。誰だ、これ?と思ったら、フランク・キャプラ監督が構想していたエリザベス・テイラー主演の総天然色の『ローマの休日』のイメージらしいのです。余りにもイメージが違うだろうそれも、今なら見てみたい、と思うおまけのようなカットですが。

 

 

政府側の思想統制、弾圧、そして具体的な映画人の追放が畳みかけるように起こっている1950年前後のアメリカは、恐怖の世界でした。

 

英雄のようなチャーリー・チャップリンまでもが、赤狩りを進める下院非米活動委員会から容共的であるとして事実上の国外追放になってしまうような時代であったということは知識として持っていましたが、どうしてそこまで暴走してしまったのか。

政府の中でどんな動きがあったのか、そしてそんな世界でも懸命に『いい映画』を作りたい、と願って、ぎりぎりの攻防を続けていくところが克明に描かれているのです。

 

密告や共産党やそれに賛同する組織の名簿を売るもの、水面下で潜って様々な手を使って映画の製作に携わろうとするものの攻防は息をつく間もなく展開し、欲や様々などす黒いものを浮かび上がらせていくのです。

 

そんな日々を経て、後半はまた少しテイストが変わります。
やっとこぎつけた『ローマの休日』の製作開始、そこで、これまで知られていなかった様々なことが起こります。

当時、密告されたことで映画の現場どころかアメリカからも追放の憂き目を見る羽目になる人間が数多くいたわけですが。

 

ワイラー監督は、そんな人物を守る意味でもローマでのロケに帯同することを決めたのです。「危ない連中をみんなローマに連れていくんだよ、すべてローマで撮影し、編集も仕上げもローマでやる」そういったワイラー監督の決意は、2巻の終盤ですさまじい執念となオードリー・ヘプバーンらにむけられるのです。

 

 

全てのキャリアを、この映画にかけ、そしてすべてをローマに注いでいったのです。映画の撮影に特化したこの終盤は、それまでのドロドロに腐り果てた古い独裁国家のようなアメリカから解き放たれて、なんと自由であることか。

 

そして、オードリーがいかにしてあの透き通るようにチャーミングな王女の姿を体現したのか、その過程をつぶさに描いているのです。
戦後日本の若者にとって、この『ローマの休日』はまさに自由と新しい世界の象徴のような映画であり、今なお愛されている名作だと思ってきましたが。この作品のベースにあったのが、こんなにも過酷な、多くの人々の人生をかけた戦いを内包した作品だったのか、と改めて驚愕しています。

 

そしてワイラー監督が、アン王女とジョーの切ないキスシーンに込めたある思い。これを知ってから映画を見返すと、まったく違うものに見えてくるに違いありません。
映画というものの文化の奥深さを知り、さらに時代のうねりというものの恐ろしさを教えてくれる、そんな稀有な作品なのです。

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